日本史

吉田松陰を処刑した直弼が徳川を自滅させた

投稿日:2018年3月11日 更新日:



松陰を師匠と心に刻んだ弟子達が徳川を滅びした。

直弼も桜田門で暗殺された。

日米和親条約や日米修好通商条約を勝手に調印した老中堀田正睦

老中首座 阿部正弘が後10年生存していたら幕末の様子は違っただろう。

直弼が強引に幕府の力を鼓舞するために行った安政の大獄。

尊皇攘夷派志士の覚悟の導火線に火を付けた。

 

 

松陰はその死を以て倒幕を早めその思想を清まで及ぼした

 

公武合体、安政の大獄、草莽崛起

公武合体が通商条約により公武離反となりその原因を外部に求め尊皇攘夷派指導者の暗殺を行った。

直弼は幕府の最高責任者である。

その暗殺は幕府の権威を大きく失墜させた。

 

多くの知恵ある指導者を処刑した直弼はその弟子達に倒幕を決断をさせてしまった。

『吾れ今 国の為に死す  死して君臣に背かず  悠々たり 天地の事、 鑑照 明神に在り。』

私は今、国の為に死ぬ。

 

死すとも、藩主への忠義、父母への孝行を尽くして、道に反することはない。

天地は永遠で果てしなく広い。

神様よ、私の行いの正しいことをご覧下さい。

 

吉田松陰の最期を山田浅右衛門は後年こう語っている。

「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、

役人どもに一揖(いちゆう)し、“御苦労様”と言って端座した。

その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」

※山田淺右衛門:首切り役人

 

スポンサーリンク

 

 

 

吉田松陰のお墓、回向院、世田谷松陰神社、松蔭誕生地、山口県下関桜山神社招魂墓

 

斬首後、小塚原回向院に埋葬された。

その後、高杉が世田谷松陰神社に遺骸を移した。

松陰誕生地には遺髪墓があり、下関には高杉の発議によって創建された幕末志士達の招魂場がある。

 

また多くの幕末の志士と共に靖国神社に奉られている。

中国や韓国などから靖国神社について言い掛かりを付けられる筋はない。

松陰の死後、実に多くの中国人にその思想や影響を与えた松蔭が奉られているわけです。

 

松陰死後

 

松陰の斬首を知った高杉は悲憤の思いを藩上役、周布正之助に手紙を送る。

『ついにわが師は幕吏の手にかかり殺された。私は松陰の弟子として、きっとこの仇を討たずにはおかないつもりです。』

高杉晋作が倒幕への決意を固めた瞬間である。

 

松陰死後百日目、親戚・門人が集い故人の霊を弔い、萩に遺髪を埋葬した。

門下生は松陰の死によって、倒幕と言う一つの目標に向かい身を投じて行く決意をする。

幕府によって大罪人にとされた松陰の墓に17名の塾生が「弟子である」と、公然と名前を刻んだ。

 

その塾生から総理大臣2名、国務大臣7名、大学創設者2名を輩出した。

 

現代人の中には松陰をテロリストと呼ぶものもいる。

それなら直弼はヒットラーである。

多くの指導者をアウシュビッツへ送ったのは幕府である。

 

靖国神社に対する隣国の誤った考え方や松陰に対するテロリスト発言は日本男子の心を深く傷つける。

清国に敬意を以て陽明学を学んだ。

日本が欧米の植民地になることを不可能にした。

命を省みず、多くの人材を送り出したのは誰か。

 

特に声を出して語ることではありませんが、心の何処かに仕舞っておいて欲しいとお思います。

 

カテゴリー

-日本史
-

Copyright© あいじろぐ【つぶやき】 , 2019 All Rights Reserved.