日本史

吉田松陰は松下村塾で何を教えたのか

投稿日:2018年3月10日 更新日:

https://pixabay.com



現代人にも多くの影響を与えて下さる。

松陰先生が教鞭を執られたことでその名は今に残る。

一体、何を教えていたのでしょうか。

なんと門下生に2人も総理大臣がいるんですね!

どうしたらそんな教育が出来るんでしょうか?

藩校である明倫館で教鞭を執るのを止めて松下村塾で教えたのです。

 

 

『武教全書』を使っていました

 

松陰は明倫館の塾頭を務めておりました

 

長州藩、強いて言えば日本の将来を担う明倫館の塾頭を辞し、松下村塾で生徒に教える選択をしている。

明倫館は士分と認められたものしか入学出来なかった。

松下村塾は身分を厭わず、武士や町民等、身分の隔たりなく誰でも受け入れた。

 

教本は『武教全書』を使用していました。
(儒学者)山鹿素行によって著された兵学書である。

 

教えた期間は1年4ヶ月、その期間を通じ80人を弟子とし、50人が通学していました。

武教全書は『軍隊の統制法、主戦、客戦、攻城、守城などの戦法、築城や兵具などの軍事技術を取り扱っている山鹿流兵学の百科全書』である。

しかし、テクニック的なな用だけでなく、「武士としての振る舞い」等にもふれ、道徳観も折り込まれていた。

 

スポンサーリンク

 

 

 

松陰が教えた他の科目

 

倫理学、地理学、歴史、経済、そして芸術を教えている。

特に歴史に関して力が入っていて世界史に多くの時間を割いていた。

特定の学派を好むことはなく、あらゆる学派の資料を使い、様々な角度から物事を見る練習をしていた。

 

本をじっくり読ませることにこだわっていた。

注釈を与えず、原文をじっくり、筆記しながら読書をすることを勧めていた。

他にも草取りや餅つきをしながら本の読み方や歴史についての講義をした。

座学をメインではなく一緒に飯炊きをするなどしながら「日々日常の些事」もとても大切にしていたようである。

 

教育の根本(士規七則)

立志を以て万事の源と為し、選友せんこうを以て仁義の行をたすけ、読書を以て聖人の訓をかんがふ。 
士、苟くも此に得る有らば、亦た以て成人たる可し。

要約すれば上の三つのことです。

「志を持て、良き友とその為に行動せよ、本を読め」

 

松下村塾は自由闊達であったらしいし、雰囲気は堅苦しくない。「礼儀を重んじ過ぎること」を控えた。

この校風が偉人達を生み出すことに一役買ったと推察される。

上下の身分制度については忌避し、その様子を感じ取った生徒も「立身出世」の為に入学しておらず、「国のため」との高い志を持ったもの達が次々と門を叩いた。

「人材の育て方」が特に優れていた。

基本的には短所を改善しようとせず、長所を生かすことのみを考えた。

最後に、「吉田松陰と同じ人間を作らない。」この点に特に注意を行った。

この結果は多様性を生み出すことに繋がり、様々な英雄を輩出するに到った。

 

最後に、武士は長生きすればするほど恥を晒すものだ。30歳ほどで死ぬが本望のような考え方が松陰にもあったのでは無いか。

来島又兵衛等は蛤御門の変でやっと死ぬことが出来ると喜んでいた様子がある。(享年48歳)

その年齢を恥じていたようだ。松陰は自分が死んでも可愛い弟子達を信じることが出来たのだと思える。

そしてその考え方も欧米列強の前では意味を成さない事にも気が付いていたのではないか。

 

武士の時代が自分を限りに終わることも気が付いていた。

しかし、最後の侍として死を以て弟子達に最後の大きな教えを残していった。

大小の刀を持ち歩くことのない時代が直ぐそこまで来ていた。

カテゴリー

-日本史
-

Copyright© あいじろぐ【つぶやき】 , 2019 All Rights Reserved.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。