日本史

幕末、吉田松陰の思想と役割

投稿日:2018年3月10日 更新日:



幕末は西暦1853年~1869年と厳密ではないがそのスパンを呼ぶことに異論は少ない。

黒船が来往し日米和親条約の締結を申し出てから戊辰戦争が終結するまでを定義しています。

諸藩の藩士も喧々諤々しておりましたが徳川幕府及び親藩や孝明天皇等宮廷でも志士同様に喧々諤々としておりました。

黒船等「西洋の衝撃」により国防意識とナショナリズムの湧き上がり、徳川将軍が事実上の国家主権者として君臨する幕藩体制が解体され、国内の政治権力の再編が進む過程である。

当然、幕府や親藩、朝廷でも意見百出であった。何も志士だけが争ったように思われるが幕府朝廷も大混乱をしていた。

 

 

意見百出、価値感の混乱、松蔭の草莽崛起変革

 

米英露蘭和親条約

 

ペリーが開国を迫る大統領国書をもたらした。

当時の老中主査阿倍正弘は親藩始め外様大名から庶民に到るまで対応する意見を求めた。

この激動の中、12代将軍家慶が逝去され、世子家定が13代将軍に就任する。

 

翌年、再来したペリーは、重ねて開国を要求。

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)林復斎(大学頭)が交渉に当たり、日米和親条約が締結。

ここに鎖国は終焉する。

 

この時より日英和親条約、日露和親条約、日蘭和親条約調印が締結された。

老中主座 阿部正弘は国交樹立後の幕府の体制再編や幕府や外部からの人材の登用、研究教育機関の創設、軍事体制再編を行った。

開国以前より継続していた活動は安政の改革と呼ばれた。

 

この時点では薪水給与の為の開港と領事館の設置であったが米国ハリスは自由貿易と開港を目的とした通商条約を求めた。

老中首座 阿部正弘は佐久間象山、吉田松陰の極刑に反対した。ここで阿部正弘が逝去されなければ優れた幕府の判断が成されたのでありましょう。

 

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幕府の勝手と無視された朝廷

 

米国ハリスは阿部正弘後の老中首座 堀田正陸を清朝での第二次アヘン戦争敗戦等の情報をもとに日米通商条約を迫った。

結果、孝明天皇の勅許を求めるべく、朝廷工作を行ったが薪水給与は認めたが開市や開港は反対していた。

結果、勅許は得られなかった。

 

同時に徳川家定は病弱で子がなく、将軍継嗣を誰にするかで国論が二分された。

薩摩長州土佐水戸の志士が暗躍することに話題の中心がブレていますが幕府、朝廷もその体を成さない程まで意見が分かれていた。

そしてまだまだ佐久間象山や吉田松陰も何時かは復帰、役に立つ存在として延命していた。

 

安政の大獄と桜田門外の変

 

1858年6月4日(安政5年4月23日)に大老に就任した井伊直弼は、将軍継嗣問題と条約問題を強権的に一気に解決させた。

紀州慶福を後継にし慶福は家茂と改名し、江戸城へ入った。

直弼は勅許必要と判断していた。

 

しかし勅許不要とする松平忠固に押され、勅許の降りないまま日米修好通商条約を調印した。

同様にイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結ばれた。

開市開港は段階的に行うとされたが、井伊の後継、安藤信正が派遣した文久遣欧使節によりロンドン覚書が調印された。

 

直弼の強権的手法に反撥が相次ぎ、徳川斉昭・徳川慶勝・松平慶永らは抗議する。

しかし、無断登城を理由に直弼によって謹慎処分を受けることとなった。

孝明天皇を無視する形で条約調印が続く。

 

幕府は朝廷や関白を無視する形で諸外国と条約を進める形になった。

そして公武合体も出来なくなった。

 

その責任を世論朝廷へ働き掛けるがける運動家、オピニオンリーダー、その保護者やシンパである封建諸侯、
幕府内部の実務官僚が標的となり次々に処刑された。

 

その中に吉田松陰もいた。-------安政の大獄

水戸藩が一番の標的になり度重なる弾圧に憤慨し水戸激派や薩摩藩浪士は密かに暗殺計画を練った。

 

江戸城に登場する井伊直弼を桜田門外にて暗殺した。-------桜田門外の変

下級武士や浪人志士の視点で語られる幕末を上から見てみましたがここから尊皇攘夷を旗印に吉田松陰の塾生や無数の草莽の志士による倒幕への進撃が始まるのです。

 

特に佐久間象山や吉田松陰に学んだもの達の勇猛果敢な倒幕への挑戦が繰り返される。

 

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