歴史

暗殺の犯人は何故坂本龍馬を切ったのか



新撰組が主人公になった番組や映画も多かった。

白虎隊の悲劇を語るも寂しい。

それぞれが自身の生きる正義を貫いた。

しかしその根底にあったものはそれぞれの正義。

この時代を理解するには日本人でも難しい。

まして日本人以外には容易に理解出来るはずもない。

殺害者は得てして切り捨てる相手に直接の恨みはない。

ただ誰が中岡と坂本を切ったのか、名乗るものがいない。

それだからこそ暗殺と言われるわけだ。

 

 

多くの貴重な人材がものの見事に殺されていった

 

池田屋事件(薩摩藩士編)

 

謀反を止める藩士が同じ藩士を池田屋で捕捉するために出向いた。

翻意させるため幾度も説得をしたが聞く耳を持たず鎮撫しに来た藩士は
「上意!」と一言叫び仲間の頭部を抜き打ちで切った。

 

そこから剣戟が始まる。
刀が折れてしまったものが鎮撫に来たものを壁に押しつけ、
仲間に「おいどんごと刺せ!」と命じ、

仲間は同じ藩士を串刺しにし、
2人とも絶命させた。
同じ久光の有能な薩摩藩士だ。

何時、友がおのれを斬りかかるか解らない時代だ。

藩主の命に背くものは切腹せざるを得ない。

幕府から京都の治安を守る為、派遣された新撰組と京都見回組でさへ
互いに何時剣戟騒動になるか解らない。
そんな時期だ。

大政奉還が両者で成立しても
その日から全てが変革するほど情報のスピードは速くない。
事を成し安心していた竜馬にも落ち度はある。

まだまだ日本刀を持ち歩く輩がうじゃうじゃいた。

 

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暗殺前に竜馬の名は慶喜にさへ知られていた

 

慶喜は竜馬を刺殺しないよう指示を出していた。

薩摩藩、長州藩は武力による倒幕論だ。

今までの恨みを晴らしたい。

 

慶喜公を切り捨てたい。

しかし竜馬は非戦で大政奉還を勧めたかった。

その竜馬を殺してしまっては慶喜公も切り捨てられる。

 

そんな竜馬を当然ながら薩摩藩士も長州藩士も面白くない。

新撰組も当然狙っている。京都見回り組もだ。

そんな殺戮者が溢れる京都にいた事がまずかった。

 

また近江屋に長く逗留したことも失態だった。

 

 

頭の中が次の事で一杯であった

 

幕臣大目付、永井玄蕃(幕府重鎮)と気が合い、
毎日、玄蕃のところへ通っていた。

永井は二条城近くに下宿しており、
その隣の寺には京都見回組与頭、
佐々木只三郎が住んでいた。

慶喜公から「竜馬を殺害するな」と指示が出ていた
とは言えどこまでその指令が届いていたか?
京都見回り組は池田屋で竜馬に2名の仲間を撃ち殺されている。

永井が居住している周囲は完璧な幕府のテリトリーであった。

そんなところに日参し、慶喜公の今後や新しい政府について

語り合っているとしたら腹立たしくもあり切りたくもなる。

一方の竜馬は大政奉還が成立し、永井玄蕃と親しいことから、安心感があった。

勝海舟と同じ位の永井玄蕃である。幕府側に対して胸襟を開いて語り合っていた。

竜馬は19歳の時、江戸へ向かう途上で岡田以蔵に切られそうになった。

人斬り以蔵をかわすほどの腕前も安心感からの油断で命を落とした。

考えてみれば、竜馬は薩摩藩、長州藩、土佐藩、幕府と喧々諤々とした組織の中に親交を結ぶものがいたが、逆に恨みを持つものも多数存在した。

今少し、用心をしてしかるべきであった。

薩摩藩は藩邸での居住を勧めていた。

切られるものも不幸なら、切る方も不幸な時代だ。

 

佐々木只三郎はその後、京都見回り組の一員として鳥羽伏見の戦いで銃弾を受け死んでいる。

殺しを行ったものがまた殺される。そんな時代を早く終わらせたかった。

そのような思いが強く存在した事を信じたい。

時代を変えても戦禍に明け暮れる。

そんな日本国を描いて志士達は死んで行ったわけではあるまい。

(捕:佐々木只三郎が龍馬を切ったかどうかは決定的なことではありません。)

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