幕末志士

松下村塾四天王、久坂玄瑞について

投稿日:2018年3月18日 更新日:



17歳、藩に願い出て九州に三ヶ月の遊学を認められる。

今もそうだが旅は若者を育てる。

長州藩にすれば将来の藩を担う若者を育てねばならない。

その遊学で熊本藩士宮部鼎蔵に会った。

そして、長州藩吉田松陰に学ぶことを進められる。

 

出会いと尊敬、信頼と志、高杉と共にあり

玄瑞と松陰の出会い

 

宮部鼎蔵は尊皇攘夷派の活動家であり、松蔭と共に山鹿素水学んだ仲だ。

宮部鼎蔵は池田屋事件で新選組に襲撃され自刀している。

久坂玄瑞は宮部鼎蔵から初めて生涯の師となる松陰の名を耳にする。

玄瑞は帰藩後、松蔭に手紙を書いた。

吉田松陰と書簡のやり取りを行い、1年後、18歳となった玄瑞は松下村塾に入塾する。

そして松蔭の薫陶を受けることになる。

 

「防長第一流の人物」であると高く評価される。

高杉晋作と競わせその才能を開花させるよう努めた。

高杉晋作の1つ年上であった。

 

松陰は自身の一番下の妹、文を玄瑞に嫁がせた。

玄瑞18歳、文15歳の時である。

出来る事であれば少なくともあと10年、天は彼を生かして欲しかった。

 

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論では倒すことが出来ない幕府を壊滅させる行動を起こした

 

安政の大獄で斬首された吉田松陰の意志を継ぐかのように久坂玄瑞は長州藩尊皇攘夷運動の先頭に立ち活発に動いた。

藩内では長井雅楽の「航海遠暦策」によって藩論が公武合体に傾き始めていた。

しかし、久坂は同士と共に上京し、長井の弾劾を叫び、藩論の転換を進めた。

 

また、薩摩藩は既に生麦事件で英国人を惨殺している。

薩摩に負けてはいられぬとの思いから高杉晋作と共に攘夷を決行。

品川御殿山に建築中の英国大使館焼き討ちを実行した。

 

また攘夷決行の日に下関にて外国艦隊の砲撃を実行した。

再び京に向かい尊攘過激派と大和行幸の計画をが策した。

 

しかし、八月十八日の政変によって長州藩士が朝廷から一掃されてしまった。

玄瑞は、その後も京都詰政務役として在京し、長州藩失墜の回復に努めた。

その後、池田屋事件の知らせが国元に伝わると藩内では京都進発論議が沸騰した。

 

来島又兵衛、真木和泉らは諸隊を率いて東上。

禁門の変、(蛤御門の変)で戦うも負傷し松下村塾塾生寺島中三郎と鷹司邸内で自刀した。

享年25歳である。若過ぎる。

 

秀才や天才、有能な若者が次々と倒れていった。

 

しかし、松陰から引き継いだ思想と行動力は坂本龍馬、中岡慎太郎はじめ、あまたの志士に多大な影響を与えた。

 

維新後、西郷隆盛は以下のように述べている。

『俺がちょっとばかりの手柄でちやほやされているが、冷や汗ものだ。

もし藤田東湖先生や久坂玄瑞、その他諸先輩が生きておられたら、その末席にも出られない。

立派な先輩方が早くに亡くなられたため、俺のようなものが偉そうに言われるのは、恥ずかしくてならない。』

 

志を実現する為の志士の姿を実現した。

きっと、その途上の死であったとしても久坂玄瑞はじめ多くの若者は喜んで死んで行ったのでありましょう。

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