1863年5月10日、徳川家茂は孝明天皇に攘夷の決行を約束した日である。
しかし、実際に攘夷決行を実施したのは長州藩だけであった。
米国船ペムブローク号を砲撃した日でもあります。
結局、幕府はこの日に攘夷を決行出来ず長州藩は一藩で外国からにらまれるようになりました。
下関は米国だけでなくフランス船からも攻撃されました。
遂には占拠されてしまいました。
長州藩を一気に倒幕へと推し進めたのは高杉と奇兵隊です
外国人との戦いに対応する為、高杉晋作によって奇兵隊は結成されたのです。
高杉晋作はその書『防長回転史』にて「寡兵を以て敵衆の虚を衝き、神出鬼没して彼れを悩すもの」
「常に奇道を以て勝を制するもの」と定義している。
メンバー構成だけでなく戦法についても奇であった奇兵隊。
技術のみならず、考えさえも停滞していた当時の日本において、型破りな軍隊を考え出したことも、高杉晋作のすごいところといえるでしょう。
これも当時は既に亡くなっていた晋作の師、吉田松陰からの教えを形にしたわけです。
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奇兵隊の隊員構成
身分を問わず有志を募って結成された。
当初の隊員622名中、272名は武士でした。
農民出身者は237名でした。
しかも、家の断絶が起こらないように次男三男がほとんどでした。
その為、正兵から軽蔑の目で見られた為に対立を招き、教法寺事件で死傷者を出してしまいました。
奇兵隊は長州藩公認ではあったのですが、異端の存在で快く思わない人がいたことが解りますね。
奇兵隊に参加した人々
高杉が教法寺事件の責任をとって総監の任を解かれた後、山縣有朋が奇兵隊の実験を握りました。
吉田稔麿
1863年に奇兵隊に参加、その翌月には当時被差別民として最も低い地位にあった人々を「屠勇隊」として組織することを藩に建議しています。
これにより長州(のちの山口県)では日本で最も早い段階で被差別撤廃政策が出され、生活水準が向上しました。
高杉以上に身分を問わず人材を活用していこうとするその姿勢は「三秀」の名に恥じない画期的な発想といえるでしょう。
入江九一
久坂、高杉、吉田とともに村塾の四天王の一人に数えられ、松陰が「君だけは国のために死ねる男児である」と評価した人物。
1863年、吉田とともに奇兵隊に参加、参謀として活躍しています。
最後には久坂率いる浪人隊の一員として禁門の変で戦死しました。
松陰の老中・間部詮勝暗殺計画や伏見要駕策など松陰の無謀な奇策を実行に移すべく奮闘した。
その為、投獄されるなど苦しい生活をおくりました。
その点からみると、松陰の最大の理解者といえるかもしれません。
片山東熊
建築家・コンドルの最初の弟子。宮内省で赤坂離宮(迎賓館)や京都国立博物館など宮廷建築に携わった建築家。
1865年、12歳で奇兵隊に入隊、戊辰戦争にも参戦し会津に遠征しています。
山城屋事件で山縣有朋に嫌疑がかかった際、東熊の兄・湯浅則和が山縣をかばって辞職した。
その為、山縣はその後弟である東熊を引き立てた。
宮内省への転出も山縣の口利きによるものだった。
山城屋和助
山城屋事件を起こし、割腹自殺した人物。
幼少時に両親が死去したため、寺に預けられ僧侶となっていましたが、1863年に還俗して奇兵隊に入隊しました。
山縣の下で戊辰戦争を戦った山城屋は、維新後に山縣の口利きにより兵部省御用商人となりました。
しかし陸軍省の公金で生糸市場に参入して失敗、責任をとって割腹自殺しました。
高杉が作り、山縣が動かした
高杉晋作が創設
山縣有朋が実質的リーダーとして隊を率いた。
明治政府において山縣を中心として形成された「長州閥」は、奇兵隊の存在がある。
山縣有朋は中間と呼ばれる足軽以下の身分。
そこから「元老中の元老」と言う立場にのし上がった。
そこには身分を問わない奇兵隊が創設され山縣には人生最大の幸運だった。