戦争を鼓舞するような詩を書かされた。
その詩に酔い激戦の地に向かった若者達。
戦いは美化されるものではない。
そこにあるのは無情な死があるのみだ。
西条八十はその心をどれ程深く傷つけたのだろう。
本来、詩は心に灯火を与えるものだ。
森村誠一氏の人間の証明
何となくみんな知っているけれど悲しい話さ
作詞は西条八十だ。
皆さんは西条八十についてどの位知っているだろう。
wikiも何処まで上手に説明しているのか、疑問に思うことが多い。
これは一部の有志が書いていることに原因があると推測する。
戦前戦中戦後と日本国民にとって無くてはならない存在であった。
特に詩や物語に興味を持っていたので尚更思い入れが強い。
戦中に軍部から軍歌を書くよう依頼された。西条は断りたかった。
右も左もまだ判らない若者を鼓舞して死をも恐れぬ詩は書けない。
図らずも曲が付き歌われるようになってしまった。
『同期の桜』等は実に多く歌い継がれた詩ではないか。戦争は無関係と思われる。
そんな人々の心も苛んでいた。
男なんだから櫻のように咲いたと思ったら直ぐに散る。
侍の宿命を歌い上げるようだ。
ぼくの帽子 西条八十
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。
けれど、とうとう駄目だった、
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの。
母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。
母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、
あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく。
人間の証明は戦後、映画化された小説で最も売れた一つである。
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十代の頃、ギターを弾き語りしていたその時に知った『さむらい日本』
どうしてこのような詩を書くことが出来るのだろう。
原曲は聴いたことが無いのでその詩を読んで感動した。
どうしたらこんな言葉が出て来るのか不思議にさえ思えた。
1 人を斬るのが 侍ならば
恋の未練が なぜ斬れぬ
伸びた月代(さかやき) 寂しく撫でて
新納鶴千代 にが笑い
2 きのう勤皇 あしたは佐幕
その日その日の 出来心
どうせおいらは 裏切り者よ
野暮な大小 落とし差し
3 流れ流れて 大利根こえて
水戸は二の丸 三の丸
おれも生きたや 人間らしく
梅の花咲く 春じゃもの
4 命とろうか 女をとろか
死ぬも生きるも 五分と五分
泣いて笑って 鯉口切れば
江戸の桜田 雪が降る
幕末初期の桜田門の変を起こす前からの志士の気持ちを書いている。
そんなに勉強が出来た訳では無いが心に響く曲は忘れない。
国内が右か左か激しく揺れている中で嫁を貰って凡庸に生きるかそれとも訳の分からぬ大義の為に刺客になるか。
どちらにしても当時はコインを投げては決めない。
鯉口を切るか切らないか。
人を切るのが侍、恋の未練を何故切れぬか!
井伊直弼の首を取った。そんなことはどうでも良いことなんだ。
そう言いたげな新納鶴千代の心意気が堪らない。
どうしたら心に刺さる詩や文章が書けるのだろう
戦後の復興を後押しした『青い山脈』も西条八十の作である。
リンゴ一つで若者の心に刺さる。
ナイフではない。
詩だ。
昔、音大に行っている女の子達とスキーに行き酒を飲みながら言えた言葉は「オタマジャクシも蛙になれる時が来る。」これは駄洒落だね。
その時代は数人の女の子を四六時中笑わせることが出来たはずなのに頭を柔らかくしないといけない。
ただ誰だって始めからすらすら書けた訳ではないんじゃないか。
苦しみながら絞り出すように紙に落とし込んでいった。
焦らず恐れず、苦しまず、そして楽しんで記事を書いて行こう。