アルピニスト

エベレスト、チョモランマ、何故死に到るまで登山家を気取るのか



 

また愛されるアルピニストが死んだ。

何故、畳の上で死を迎えないのか?

どのルートから登ろうと山頂は同じだ。

 

メスナーを見習って欲しい。

サウスコルで1から2週間赤血球増量剤を注射して

順応してから無酸素で登っている。

 

It is there. そこに山があるから だから山域でゴミを捨てるように死ぬな!

一番、心して欲しいことは最低限のマナーとして山域で死んで欲しくはない

本来、登山家はルールを守る、礼儀正しさを持ち合わせている。

しかし、知識やレベルが上がるとより困難な高みを目指す。

知識と技量と反比例して体力は落ちていく。

事故を起こし死者を出す度に登山という楽しみが

のように思われるのは寂しい限りだ。

素晴らしい景色と苦労の末、

山巓に立った時のすがすがしい気持ち

心を清めてくれる山々の恩恵

だからこそ多くの人々を誘うのだ。

しかしながら残念なことに

加藤文太郎、松濤明はやはり北鎌尾根を

 

その魂の住処としてしまった。

山で死ぬと言うことはどれ程、惨たらしく

その骸を見つけて頂いた時の不快感を知る者は

最も死にたくない場所である。

 

岩壁を落ちていったものの骸は手先足先がない。

何とか助かろうとして手掛かり足掛かりを求めるために

削り取られてしまう。

 

また、冬山の風雪で行方不明になったものは

春先の気分の良い登山道からちょっと奥まったところで

残雪から露出した部分は白骨化し

 

雪に埋もれる部分は肉塊を残している。

そんな骸となって人に見られたくはない。

図らずも死ぬことは実に多くの人々に

 

迷惑をお掛けする。

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ガストンレ・ビュファーに憧れた。『星と嵐』『天と地の間に』岩山ばかりのヨーロッパアルプス

 

登山家と言うよりそれは職業だ。

貴族達を伴ってアルプスを体験させるガイドである。

つまりプロフェッショナルなのだ。

 

プロフェッショナルは事故を起こさない。

また、同伴したお客様の生命身体を安全に守り通す。

我が国の登山家も冒険家もプロフェッショナルになってもらいたい。

 

栗城史多氏がどう言う人物かは知らない。

しかし山域に入って活動をする際に

勝ち負け、成功や失敗はプロフェッショナルにはない。

 

一か八かで山に登るものは登山家とは呼ばない。

周囲に反対意見があるにもかかわらず

その山行を実施するならばそれは素人である。

 

植村直巳氏はマキンリーで消息を絶っている。

正直に言って植村氏も筆者は素人だと思っている。

パーティーを組もうが単独行であろうが

 

家族に心配をかけたり

まして帰らぬ人になることはやはり素人なのだ。

植村氏の場合も実は明大山岳部時代に

 

最も体力がなく登山には不適格な人だったと聞き及んでいる。

例えばマッキンリーで遭難するとしたらクレパスの裂け目を

新雪が覆い、気づかずに落ちてしまう事故が最も懸念される。

受験ではないが傾向と対策を確実に行えば死して名を馳せることもない

クレパス対策は物干し竿のような長い棒

その中央部に自分をしっかり固定する。

もし図らずもクレパスに落ちた時にも

 

その棒が落下を防いでくれる。

二人で行動していればザイルで結び合い

距離を取って行動する。

 

どちらかがクレパスに落ちた場合

手元にループ状にしたザイルの中央に

ピッケルを刺し貫いて雪面に打ち込む。

 

そして確実にパートナーを笑顔で救い出す。

これがプロフェッショナルの処し方だ。

そんな事情を知り、訓練を積んだ。

 

栗城史多氏は冒険の共有を通じ多くの人々に登山を知らしめたとは語って欲しくない

何度の言う。

事故を起こしてもいけない。

まして命を落としてもいけない。

それは登山家でもなく単なるド素人の証明だ。

常に万が一の危険を想定し対応策を想定してゆく。

そして涼しい顔をして下山し、また次の目標へ向かう。

 

筆者が知る限り

素人ならこれで終わり。

そんな状況を死ぬなど考えもせず

 

普通の顔をし自力で窮地を解決し

下山して来る奴らをたくさん知っている。

しかし元気に生きているから有名にはならない。

 

登山で売名行為をするから死んでしまう。

山は心の洗濯をしに行くところで

金を稼ぎに行くところではない。

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