竜馬の身長は五尺八寸、刀は二尺二寸である。175.66㎝となる。
そして刀は陸奥守吉行である。
そんなことは本来、竜馬の”ものがたり”には無用な話である。
何をやっても人並みに出来なかった。
しかし、18歳、日根野道場における大試合(おおよせ)から
”竜馬はつよい”と評判になり、小栗流の目録を頂戴した。
堂々たる偉丈夫である。
日根野弁治はその後ろ姿に隙がない竜馬に剣術の才能を見出した。
ご子息なら剣でめしを食えます
目覚めた才能と自由闊達な思考
末弟の竜馬の才に兄権兵はたいそう喜んだ。
ゆくゆくは城下で剣術道場を開かせたい。
一人前以上になれそうなら親も兄達も嬉しいのは何も今だけではない。
他人と同じ事をしてもつまらん。座禅ではなく竜馬は歩いた。
何時か自分に降りかかる岩石を思い浮かべながら、
避ける事をせず岩石を意識しながら毎日2時間も歩き続けた。
この修行が身長と体格を伴って後ろ姿に隙がなくなった。
早々、江戸千葉道場への剣術修行を申し出た。
郷士でであるため福岡宮内家を通じ藩に剣術修行を願い出た。
直ぐに許可が出る。
幕藩体制、外様大名、上士郷士と言う身分制度に縛られながらも竜馬の家は金持ちであったため藩に金を貸す事もしばしばあったようだ。
身分制度がありながら金で人の心は変わることを当たり前のように知っていた。
ここに竜馬のこれからが凝縮されている。
身長と体格、そして刀、この時に身分を超えるものを身に付けていた。
司馬さんが竜馬を有名にした訳では無い、竜馬が司馬さんを世に出した
『竜馬がゆく』で坂本龍馬が脚光を浴びた訳ではない。
日本が敗戦する前も竜馬は英雄だった。
小さな仕事だが竜馬の存在が日本を変えた。
もし近江屋で暗殺されていなければ明治政府は10倍以上の仕事をしただろう。
昭和の敗戦もなかったと推察する。
司馬さんが素晴らしい文体で竜馬を担ぎあげた。
司馬さんの作った竜馬だと陰口を叩く間抜けがいる。
司馬さんは神田神保町の古本屋に依頼し貴重な文献を大阪から買いに来る。
その際の支払金額は2000万円を下らないと言うことを何かの本で読んだ。
そこまで金を掛け徹底的に調べ上げた。
竜馬については、昭和18年の国定教科書に、「朝廷では、内外の形勢に照らして、慶応元年、
通商条約を勅許あらせられ、薩・長の間も、土佐の坂本龍馬らの努力によって、
もと通り仲良くなりました」と書かれている。
特に薩長同盟の箇所には、西郷隆盛や木戸孝允は登場せず、
薩長を取り持った人間として坂本龍馬の名前だけが出ているのだ。
国定教科書ゆえ、この記述は国民がみんな読んだはずだ。
つまり人気があったかどうかは別として、坂本龍馬は戦前なら誰もが知っている偉人だったことは間違いない。
昭和32年に発行された教科書で「土佐藩の尊王攘夷派を代表する坂本竜馬・中岡慎太郎らの藩士は、薩・長両藩の間を説き、1866年(慶応二年)一月、薩長連合の密約を成立させた」
(豊田武著『高等学校社会科 日本史』中京出版)と書かれている。
司馬さんの竜馬が宣伝される前より竜馬は教科書に登場している。
しかも戦前同様、薩長同盟の項には両藩の代表であった西郷と木戸は登場していない。
戦前からずっと龍馬は教科書に出てくる偉大な有名人物だったのである。
その身長と体格、そして剣術で名声を広め、ジョン万次郎の知識などが彼の人生を決めた
司馬さんの『竜馬がゆく』は憶え難い単語を覚えやすく、長い文章を飽きさせず読者を引き込む力がある。
そして維新回天の重要な時代に送り込まれたキーマンを何人(なんびと)にも分かり易く書いている。
つまらん身分制度を廃棄する。”公武合体””尊皇攘夷””開国佐幕”のいいとこ取りをした。
今日、残念な事は竜馬の暗殺である。犯人が悪いわけではない。
正しい目で竜馬を見れるものがいなかった事が残念だ。
そして現代に到っても竜馬を素直に理解出来ない輩がいる事が寂しい。
※正式には”龍馬”である。物語に中では”竜馬”が良い。
現代も沢山の人から愛されている龍馬ですが実は昔からモテモテで3人も奥さんがいたんですよ。
それについてはこの記事で書いています。
維新回天の論理的指導者吉田松陰(長州藩)と未来を見つめていた坂本龍馬(土佐藩)共に維新の重要人物です。
直接会ったことが無いはずなのでもし会っていたとしたらおもしろいなー
そんなことをこの記事で書きました。
暗殺犯はもう誰か確定は出来ない。大政奉還と同時期のことであった為
犯人らしきもの達は土佐藩の意向で処刑されている。暗殺の経緯とその後
はこちらの記事に書きました。
龍馬に恋い焦がれた人は七人もいたらしいよ
龍馬は誰が一番好きだったんだろう