今の感覚からしたらブーツを履いた150年前の坂本龍馬の写真は正直言っておかしい。
しかしその姿はまだ見ぬアメリカや外国に対する強い憧れだ。
本人は最先端をやっているつもり。
自分で触れてみて、話してみて、どんな事を考えているのかを知りたくてしょうがない。
人伝に聞くアメリカに早く触れてみたい。
そんな強い欲望を感じる。
笑っちゃいけません。
今に伝わる手紙を見ていても理路整然としているし、戦略家でもある。
坂本龍馬がブーツを履いて撮った写真から窺う人物像
ジョン万次郎
吉田東洋からジョン万次郎の取り調べを行うよう命じられた。
河田小龍は万次郎から英語や海外の情勢や思想、技術などの話を聞く。
万次郎から聞いた内容をまとめた『漂巽紀略』を執筆した。
その河田小龍から伝え聞いた万次郎のアメリカ体験などが
その後の龍馬の思想や行動に大きく影響した。
単に新しいものを身に付けると言うより万次郎が経験したもの、
事に触れたかったのだと思われます。
太平洋に面している南国土佐ならではの地理的条件が龍馬だけではなく土佐藩士の人材を育んだのだ。
江戸から遠く離れている。
そして距離で言えば遠いアメリカではあったが海一つで繋がる事にも時代が必然を生んだ。
それは何も龍馬だけではなく敵味方関係なく何かを変えなければいけないことを十二分に理解していた。
武市瑞山(半平太)、後藤象二郎、岩崎弥太郎と言う人材を輩出した。
強いては藩主山内容堂から大政奉還を慶喜に強く勧めることになった。
土佐藩という独自な風土
江戸幕府と言う権力が滅び去らねばならぬ時期が来ている事を
認めなくても認めざるを得ないことと確信させたのだ。
初期の段階で土佐藩の藩論を攘夷挙藩勤王を揚げる土佐勤王等を結成した武市瑞山は
吉田東洋を暗殺し尊皇攘夷に転換させた。
その後、山内容堂によって武市は投獄され切腹を命じられた。
しかし維新後、容堂は木戸孝允から酒席で「殿は何故、武市半平太を切り捨てた。」となじった。
「藩命に従ったまでだ。」と応えたが容堂も晩年、病床で「半平太、ゆるせ、ゆるせ」とうわごとを言っていた。
容堂も幕藩体制があったが時代の変化を悟っていたし、本心ではみんな可愛い自分の藩士達だったのだ。
土佐藩では進んだ外夷の存在を最も身近に感じていた。
そんな環境の中に育った龍馬は金持ち一族で郷士の侍であった。
その立場は自由に近く幕府だ天皇だなどと下らない事に命懸けで
言い合う仲間達を滑稽に思いながらも不憫に思っていたのだ。
つまらんことに命懸けの志士を悲しく思っている
和服にブーツを履いて写真に写る彼の姿が
「つまらんのー、つまらんのー、そげな事で殺し合っても意味がないぜよ!」
と語っているではないか。
ちっちゃな事にいい大人が喧嘩しているまにアメリカに日本をまるごと取られるぜ。
俺は早くアメリカと戦うのでなく法律という奴で対等にやり合ってビジネスってやつで喧嘩がしたい。
そう語っているように思える。そう思うのは私だけだろうか。
駐日大使として来日したアーネスト・サトウ
竜馬も驚くほど日本語が上手であった。英国から来た男だ。
「おだてともっこには乗りたかねー」
と言われてしまった。どうして英国では日本語が解るようになれるのか?
そんな自由がある国、進んでいる国がうらやましかった。
※人におだてられるのは御免だし、もっこ(罪人を輸送する籠)にも乗りたくはないとの意
そんなサー・アーネスト・メイソン・サトウが羨ましく思えたのではないか。
アーネスト・サトウは薩英戦争や英国との諍いなどの際にその後始末の交渉に現れる。
そしてそれぞれの立場を理解しながら話し合いを終結させることに尽力した。
そんなこともあってある時は拳銃を出し、また次の機会では万国公法を出すわけだ。
そんな先取の精神がブーツと写真に現れる。
写真に写ることも凄いことだ。ブーツを持っていることも凄いことだ。
初めのブーツは高杉晋作にもらった。高杉は藩命で外国に行っている。
自分もどんどん海外に行きたかったのだろうと思う。
そう思うと司馬さんは天命を成し遂げて終わるや否や天に戻されたと言うが
竜馬にとっては、そしてその後の日本国には為すべきことが無限にあったように思われる。