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三島由紀夫著『豊穣の海』第一巻「春の雪」--輪廻転生

明治維新を経験し西洋の文物が溢れた。

皇族や子爵など艶やかな装飾に満ち溢れた時代。

まだ精神文化が残る大正、昭和初期

愛することの意味さへわからない。

 

 

皇国として躍動した時代の面影

 

日本の文化が継承されてその言葉や着衣、多くの身の回りのものに

全身の感覚が敏感に反応するような文字を使った芸術だ。

決して映像ではその感動を伝えることは出来ない。

 

「春の雪」に使われている文章は美しい日本語隆盛時のもの

 

『春の雪』は1巻で完結して欲しかった。

その死の間際に「今、夢を見ていた。又、会ふぜ。きっと会ふ。滝の下で」と本多繁邦に言う。

ここで次に繋げる言葉がつまらない。(2巻~4巻までに)

三島さんが輪廻転生を小説の中に持ち込むことが陳腐に感じる。

死に行く者に安心して眠りにつくように語りかける夢物語。

輪廻転生と言う概念は古代エジプトよりあった。

現代に於いて信じるも信じないも答えは出ない。

寧ろ、今、目の前の1秒を1京(10の16乗)時間に等しく思える。

人間の想像を遙かに超える時が死を迎えることによって過ぎて行く。

 

そのような考え方に変化していくのではないか。

今となっては輪廻転生は子供じみてしまう。

 

 

 

 

しかしその飾り立てられた文章は優雅であり心に響く

 

挫折を迎える前の維新、明治、大正を通じ、昭和で多くの文人や政治家、歴史の中で躍動する人々と三島さんが実際に会い、語り合いながら自分の文学を模索し形にしていったことが羨ましく思える。

 

皇族、貴族、軍人、支那事変から大東和戦争とその敗戦による価値感の変遷を身をもって経験した三島さんが羨ましくも思えるのだ。

何より、当時の文章にされた言葉は深い教養と鍛えられた精神をもって書かれた。

その文脈には憧れを持っている。

また文字を扱う者達の命懸けの仕事ぶりである。

 

 

三島さんは太宰にも会って話をしている。

伊藤左千夫みたいな筆名を欲した。

それほど庶民的な文章に強い共感を持った。

 

 

伊藤左千夫は万葉的な名前?

そんな心を持ちながらも男らしさ

みたいなものに強い憧れも持っていた。

 

 

 

そうでなければ割腹自殺は絶対にしない。

 

『豊穣の海』は青木繁「海の幸」をイメージしていなかったのか?

 

 

この絵は未完ではあるが明治時代に早世した今もなお好まれる画家の作品である。

海には数量を思い浮かべるのも億劫な命の爆発が現れる。

そして皆、生きる為に食べる。

 

 

そして、人知の及ばざるところで恋愛が突然に心の中に芽生えるのだ。

命の継続性は留まることは無い。

潮騒の中で命を思い切り感じていた。

 

 

ただ、安易に映画化をして物語や大切なシーンを変えて描かれては折角の名作も劣化する。

映画では描写出来ない心と仕草が大切なのにそれが出来ない。

例えば本に書かれた意図に忠実ではないかもしれません。

 

手元に本がないのではじめて聡子と愛を奏でる時、聡子の受容の橇に乗り、しかしあてがわれたその手があだになった。

この文章は清顕がまだ女性との交渉を持ったことがない証であり、聡子には更に深い愛情が芽生える。

清顕にすれば恥ずかしながらも聡子がその柔らかい体で自分を望みながら受け入れている。

 

 

ここで言葉のない二人だけの確認作業を完結している。

これは映画で描写出来ない。

聡子の和服の襟元を言葉で描写している。

 

 

文字を読むものにはかけがえのない美しさや

古くなることのない絹の引き締まった襟元の造形を描いている。

ここで輪廻転生は不必要でどんな主義主張も関係のない世界だ。

 

 

お互いに不慣れな若者が大人になって行くプロセスは純粋無垢である。

蛍の明かりは儚いからこそ価値がある。

 

 

映画化、輪廻、これは不要であった

 

 

本を読む。

その為の小説ではないか。

映画になる。

 

 

多くの目に触れることでその解釈の違いで陳腐な批評も出て来る。

そんなことは不要で強いて言えば映画を見ることも拒み、

ブログでの素人の批評も読まなければ良い。

 

 

その作品に思いを寄せる。

それだけで良い。

三島の本を読んで何を思い、何を感じ

 

 

そして心の中に刻み込まれる

心の中だけで表出される映像や

意味や価値が感動なんだ。

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