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高杉晋作と久坂玄瑞のエピソード

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何故、何の為に死を求めるのか。今、深く考えるべきだ。

幕末史は日本男子の溌剌とした青年が描かれる。

友を求め友を創り、友と語らう。

時として友との約束を守るため命を落とすことも厭わない。

また、藩主もそんな青年が可愛かったのではないかと思います。

 

 

松下村塾での久坂玄瑞と高杉晋作、その後の生き方を変えた

 

松蔭の深い愛情と青年への期待と希望

 

久坂玄瑞は若くして家督を継ぎ苦労人の印象が強い。

裕福な武家の生まれで自分の思うように生きて来た高杉晋作。

異質な二人が生涯の親友になりライバルとなっていく。

 

玄瑞に誘われ晋作は松下村塾に入塾した。

晋作は身分の高さや根っからの自信家であり、得意の詩を松蔭に見せる。

松蔭の答えは「才能は見られるが、玄瑞には劣っている。」と言う。

その言葉を受けて晋作は負けず嫌いが必死に勉強に励む。

松蔭は玄瑞に晋作の話ばかりを評価する。

「晋作の識にはかなわない。」と玄瑞に意識させる。

 

松蔭は思惑通り「識の晋作・才の玄瑞」と評されるように、メキメキと才能を開花させた。

晋作は玄瑞に対して尊敬や憧れの気持ちを強く抱いていました。

晋作にとって久坂は志を同じくする同士であり、最も頼りにした人物であったようです。

高杉晋作は久坂玄瑞亡きあとも度々、玄瑞を夢に見るほど心の支えになっていた。

 

 

 

 

幕府海外視察団の藩代表として選ばれた晋作

 

松蔭がかなえることが出来なかった事を晋作は経験した。

始めて見た海外、上海で見聞きした事は晋作にとって衝撃的な光景でした。

西洋人にこき使われる中国人を見て「上海は英仏の属国となっている」との感想を残している。

アメリカの意向により開国した日本も上海で見た同じ道を歩むだろう。

その海外視察で晋作の心の中に強い危機感が生まれました。

 

尊皇攘夷運動

 

上海からの帰国後、長州藩では守旧派 長居雅楽が失脚、尊皇攘夷派が台頭、晋作も桂小五郎、久坂玄瑞、と共に尊攘運動に加わった。

江戸、京都で勤皇・破約攘夷宣伝活動を展開し各藩の志士達と交流した。

薩摩藩は既に生麦に於いて英国人を惨殺し攘夷を断行した。生麦事件

 

負けて入られぬと外国公使が武州金澤で遊ぶらしいとの情報により、そこで刺殺しようと同志が相談していた。

玄瑞が土佐の武市半平太に話したことから、これが藩主山内容堂に伝わり、また長州藩主毛利定広の知ることとなった。

そして桜田邸内で謹慎を命じられる。

 

その後、幕府の違勅に抗議するため、建築中の品川御殿山英国大使館を焼き討ちする。

幕府は江戸庶民の焼き討ちへの賛同が強く、厳しく犯人の追求をしなかった。

また藩は幕府を刺激することを恐れ晋作を江戸から召還する。

 

 

晋作の復活と奇兵隊

 

幕府が朝廷から要請され制定した攘夷期限が過ぎると長州藩は攘夷実行に移した。

開国反対であった長州藩は行動することに意味を求めたのだ。

そして長州沿岸を通る外国船に砲撃を行う。

 

その一月後、報復に訪れた外国船は、近代的兵器を備え、長州藩の武士は一戦を交えることもなく惨敗する。

長州藩は軍事力の違いを海外視察経験のある高杉に意見を求めるため呼び戻す。

晋作は下関の防衛を任され、廻船問屋白石正一郎邸に於いて身分に因らない志願兵を集い奇兵隊を結成した。

画期的なことは身分を問わず、徴兵でもなく、有志を募ったことが特徴である。

 

蛤御門の変 久坂玄瑞死す

 

分球の政変(八月十八日の政変)公武合体派(会津・薩摩)が長州藩を主とする尊皇攘夷、急進派公卿を京都から追放した政変。

5月10日を攘夷決行の日と決められたが、長州藩は下関海峡でアメリカ商船を砲撃したが他藩は傍観を決め込み、家茂は京都から江戸に帰ってしまった。

 

蛤御門の変  文久の政変で京都を追放された長州藩勢力は会津藩、京都守護職松平容保の排除を目指して挙兵する。

京都市中での市街戦を繰り広げた。

大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣以来であった。

 

京都市中も約3万戸が焼失した。

大砲も投入された激戦は長州藩が敗北し尊皇攘夷派は急進的指導者の大藩を失った。

ここで久坂玄瑞は自害している。

 

ここで長州藩は朝敵とされ第一次長州征伐が行われる。その後も長州藩は幕末に於ける政争の中心的問題となった。

しかしここから高杉晋作の超人的な長州藩復権の活躍が始まる。そして一気に大政奉還へと進んで行く。

松蔭の教えや思想がその弟子達によって具現化されて行くのであります。

 

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