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晋作が組織した奇兵隊は松陰から学んだ『西洋歩兵論』の実現です

師から学んだことを実行した。

それが晋作の提案した奇兵隊だ。

また攘夷を実行しその武器の違いを知っている長州や薩摩だから本当に組織出来た。

天下太平が幕府の侍から戦意を失わせていた。

侍は侍でしかない。

漁民は海を知っている。

船は海で使う道具だ。

 

奇兵隊(きへいたい)

 

松陰の『西洋歩兵論』を実行した

藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊である。

『奇兵』は正規の武士を意味する『正規兵』の反対語である。

奇兵隊などの諸隊は文久3年(1863年)

長州藩は下関戦争後、藩に起用された高杉晋作の発案で組織された戦闘部隊である。

この諸隊の編制や訓練には高杉晋作が学んだ吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響がある。

 

当初は外国艦隊からの防衛が主目的で、本拠地は廻船問屋の白石正一郎邸に置かれた。

本拠地はのちに赤間神宮へ移る。

奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称された。

 

同年に奇兵隊士が撰鋒隊と衝突した教法寺事件の責めを負い、高杉晋作は総督を更迭された。

その後、河上弥市と滝弥太郎の両人が総督職を継いだのを経て、総督は赤禰武人、軍監は山縣狂介が務めていた。

 

 

 

 

禁門の変で長州藩は禁裏を侵したために朝敵となった。

 

幕府は朝敵・長州藩を伐つため、第一次長州征伐を行う。

この戦争では奇兵隊も軍事力として戦った。

長州藩が第一次長州征伐に敗北した後に、亡命していた高杉は帰藩。

 

高杉らが藩政の主導権を握り藩の保守勢力を一掃すると、長州藩の方針は倒幕に定まる。

翌、元治2年(1865年)には幕府によって再び第二次長州征伐(四境戦争)が行われ、奇兵隊諸隊も共に戦った。

幕府軍16万に対し、長州軍3,000で幕府軍を敗退させた。

 

戦いに使う武器の違いが決定的に勝敗を決めた

 

慶応2年(1866年)に長州藩は薩摩藩と倒幕で一致して軍事同盟を結ぶ。(薩長同盟)

慶応3年10月14日(1867年11月9日)の大政奉還。

慶応3年12月9日(1868年1月3日)に薩長が主導した王政復古が行われた。

 

奇兵隊ほか長州藩諸隊は新政府軍の一部となった。

旧幕府軍との戊辰戦争で戦った。

この頃、周防地区では第二奇兵隊(南奇兵隊)も作られている。

 

奇兵隊は身分制度にとらわれない武士階級と農民や町人が一緒になっていたが、袖印による階級区別はされていた。

隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居し、蘭学兵学者・大村益次郎の下で訓練に励んだ。

このため、いわゆる民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍である。

 

奇兵隊は総督を頂点に、銃隊や砲隊などが体系的に組織された。

高杉は泰平の世で、貴族化して堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考えていたとされる。

隊士らは西洋式の兵法をよく吸収し、ミニエー銃や当時最新の兵器・スナイドル銃を取り扱い、戦果を上げた。

 

※ミニエー銃の有効射程距離は最大500m。

会津戦争に於ける戸の口原の戦いで有効射程距離が100m以内のゲベール銃では勝負にならなかった。

よって会津藩兵は、新政府軍との戦闘開始直後に潰乱した。

 

軍事訓練は昼の2時間の休憩を挟んで5時から20時まで13時間に及び、文学稽古も早朝と夜間に各2時間行われた。

 

※例えば第二次長州征伐では関門海峡に布陣された幕府艦隊を漁船で暗礁を読みながら幕府艦隊を弄んだ。

武士より地元の漁民がこの戦には有効であったわけだ。

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